2013.1.30


高須神社からは七道駅を目指して歩きます。

七道マップ


下町風情が残る路地です。

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界隈は格子戸の家が多く残っています。
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「利休のふるさと堺」のノボリ。
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鉄砲鍛冶屋敷です。内部は残念ながら非公開です。
1543年、種子島に漂着したポルトガル人から伝わった鉄砲(火縄銃)とその製法は橘屋又三郎などによって堺にも伝えられました。

井上関右衛門の居宅兼作業場兼店舗で、「元禄二年堺大絵図」(1689年)にも記載されていることから町家建築としては日本でも最古の部類に入るとされています(市の指定有形文化財)

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写真をクリックすると拡大します。
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清学院という山伏修験道の寺です。
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不動明王が祀られています。不動堂内部は写真撮影禁止でした。
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建物全体
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江戸時代後期から明治初頭にかけて寺子屋が開かれていたのです。
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当時は硯に筆、そして5つ玉のそろばんだったのです。
先生の硯は使い込まれて中央部が凹んでいました。
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北旅籠(はたご)町で生まれ、仏典を求めて日本人で初めてヒマラヤ山脈を越えてチベットに入った河口慧海(かわぐちえかい)(1866年から1945年)もここで学んでいたそうです。私は河口慧海を知りませんでしたが、堺では有名らしいです。七道駅の西口に像が立っていると教えてもらい、翌日行ってきました。

ヒマラヤを歩いている河口慧海をイメージした像のようです。
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旧堺港灯台とは違う堺のマンホールです。

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七道駅高架下にある鉄砲鍛冶射的跡の碑と放鳥銃定限記の碑があり、下記の説明がありました。
鉄砲を作るとともに射撃練習所があったのです。 


 放鳥銃定限記 (ほうちょうじゅうていげんき)
 わが国に初めて鉄砲が伝来したのは,天文十二年(1543年)のことです。
 堺の貿易商人橘屋又三郎は,いちはやく種子島より鉄砲の製造技術と射撃場を持ち帰ったと言われています。また,紀州根来の津田監物算長も伝来の銃を持ち帰り,堺出身の刀工芝辻清右衛門に鉄砲を作らせました。清右衛門は,豊臣秀吉の「根来攻め」のあと堺に戻って製造を続け,鉄砲鍛冶芝辻一門の祖となりました。
 堺鉄砲の製造は,芝辻一門,榎屋一門など多くの鉄砲鍛冶によって国内最大の生産量を誇りました。それとともに試射場も次々と作られ,このあたりにも江戸時代初期につくられた試射場が,昭和の初めまでその面影を残していました。
 大正三年にこの付近で,運河の開削工事中に「放鳥銃定限記」と題した碑が,発見されました。この碑には,寛文四年(1664年)砲術家川名金右衛門忠重によって,「鉄砲 は優れた兵器で,正しく扱えば命中確実である。しかし,そのためには不断の習練が必要である。小濱民部丞嘉隆は文武両道を兼ね備えた人であり,堺の浜に射撃場を設け砲術家の養成や銃の試射を行うなど,大きな功績を残した。」と,恩師小濱丞嘉隆への讃辞と鉄砲試射場の由来が記されています。
 この碑もまた,堺鉄砲の歴史を物語る貴重な資料です。
      運河掘削工事の発起人であった柳原吉兵衛氏は,この碑を後世に伝
      え顕彰するために,自然石をくりぬいた中にはめこみました。その後
      昭和一九年に堺市に寄贈され,長らくザビエル公園に保存されてき
      ましたが,駅前広場の整備にともない,発見場所に近いこの場所に移
      設しました。
   平成二年三月
    堺市
    堺市教育委員会


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七道駅の傍には「ダイセル化学工業」の広大な敷地跡がありました。
イオンが建設される予定ですが10年以上そのままということです。

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ダイセル化学工業跡地のフェンス沿いに沿って仕事に向かいました。
第一日目の「ブラオヤマ」でした。

つづく・・・・・山口家住宅


大阪&堺シリーズ

1.女性専用車両
2.堺市役所からの夕日
3.菅原神社〜千利休屋敷跡
4.南宗寺内の寺
5.南宗寺 家康伝説
6.南宗寺 八方睨みの龍
7.美々卯