2013.1.31

本願寺別院を出て、角を曲がると善長寺です。
1549年に三好政勝(みよし まさかつ、1536−1632年)が父の三好政長(1491−1549年、法名宗三) の菩提所として三好政長戦死の日を開基としてい建立しています。

南宗寺にも三好一族の墓がありましたね。
no title



11面観音菩薩を祀っています。
no title

境内が狭い寺です。
no title


no title


妙国寺です。
no title


「右 そてつ」とは妙国寺の蘇鉄を指しています。「左 ふじ」は何でしょう?
no title


妙国寺の向かいにあるのは本受寺。
本受寺は西宗真(洗礼名るいす)の菩提所です。若くしてしばしば呂宋方面(フィリピン)に渡航し、スペイン語に通じていたそうです。徳川家康はルイスに南方の貿易を一任しました。
ルイスは3回朱印状を持ってフィリピンのルソンへ渡航しています。その際の朱印状が残されている寺です。
 
no title




no title



いよいよ「夜泣きの蘇鉄」がある妙国寺へ入ります。

no title

門にはあ、うんの像が立っています。
no title


no title


妙国寺は永禄5年(1562年)日蓮宗の学僧日Г開いたとされているのでこの像が日Г任靴腓Δ?、蘇鉄に囲まれています。

no title




固く閉ざされた扉で、菊と桐の紋が描かれています。
no title


本殿の向こうに見えるのは龍神堂です。
no title


no title


no title


龍神堂の先に「土佐藩11烈士」の墓があります。

許可なく堺港に上陸したフランス兵と、同兵の上陸を阻止し、艦内へ帰船させようとした土佐藩との諍いが刃傷事件に発展し、フランス側は帰艦したが、その際、土佐藩の旗を倒す等した事から、対応した土佐藩は、とっさに発砲しフランス人11人を殺傷又は海に落としてしまったのです。

フランスは、賠償請求は当然のこと、土佐藩20名の切腹を要求して来たので、事件に係わった藩士達29名が、現在の大阪市西区の土佐稲荷前で籤を引いて切腹者を決めて切腹を敢行しました。

 切腹は妙国寺で行われましたが、藩士達は切腹で自らの「はらわた」を摘みだし、立ち会いで居並ぶフランス水兵に次々と投げつけた事から、恐れを抱いたフランス側は11人目で切腹の中止を申し入れ、結果として9名が切腹を免れました。

これを「堺事件」といいます。

江戸開国の頃は言葉が通じず、誤解が起こった悲劇です。

no title


「夜泣きの蘇鉄」や「大蘇鉄」が見当たらないので、近くにいた男性に聞くと、本堂の階段下から入ると教わり、もう一度本堂の下へ行くと受付という表示がありました。

中に入ると撮影禁止で荷物は全て預かってくれ、ガイドがつきました。

【夜泣きの蘇鉄伝説】
大蘇鉄は織田信長の所望で安土城に移植されましたが、毎夜「堺に帰りたい」と泣いたので、信長は激怒して「切り倒してしまえ」と命じました。蘇鉄は切り口から鮮血を流し大蛇のごとく悶絶し、恐れをなした信長は再び妙國寺に返したという伝説の樹で国指定の天然記念物です。

パンフレットの写真です。
夜泣きのソテツ



別に、ソテツの枯山水庭園があります。
本殿の中から見るこちらの景色が素晴らしいです。堺へ行った時はぜひお立ち寄りください。

信長が堺に来た時は、妙国寺が宿泊所であったので、利休に茶を振舞われました。見事な蘇鉄の枯山水庭園を眺めて、安土城へ蘇鉄を持って行き「夜泣きの蘇鉄」となったのです。

また、枯山水の景色は家康が堺に来たとき、安らかに休めるようにと古田織部とその弟子小堀遠州が遠州の姿を再現したと言われています。

写真をクリックすると拡大します。
手前の砂を駿河湾に見立てています。
蘇鉄の枯山水庭園



つづく・・・堺伝統産業会館

大阪&堺シリーズ

1.女性専用車両
2.堺市役所からの夕日
3.菅原神社〜千利休屋敷跡
4.南宗寺内の寺
5.南宗寺 家康伝説
6.南宗寺 八方睨みの龍
7.美々卯
8.鉄砲鍛冶屋敷
9.山口家住宅
10. 寺が並ぶ界隈