再び旧東海道を歩きます。

路地の奥にあるのは「呑海寺」です。名前が面白いです。海に近い場所なのでこのような名前がついたのでしょうか?

松並木の奥にあるのは昌福禅院という禅寺です。


この松は28号です。


昌福禅院には立派な茶室があり、座禅会も開催されているそうです。


お寺の中にお稲荷さんがあり、小さなキツネがたくさん飾られていました。
お寺の庭
つづく
旧東海道シリーズ
・東海道53次 小田原宿 酒匂の渡し
グリーンヒルに移ってから、薔薇を中心とした庭を造り、一年中花が咲いている庭を目指しています。ブログには庭を中心とした花や、旅ブラで撮影した画像をデジブック等で紹介しています。庭もブログも花いっぱいにしたいと思います。
松並木の奥にあるのは昌福禅院という禅寺です。
この松は28号です。
昌福禅院には立派な茶室があり、座禅会も開催されているそうです。
お寺の中にお稲荷さんがあり、小さなキツネがたくさん飾られていました。
お寺の庭
つづく
旧東海道シリーズ
・東海道53次 小田原宿 酒匂の渡し
新田義貞首塚の説明板はありますが塚らしいものはありません。不審に思い路地を進むと塚がありました。矢印ぐらいつけておいてほしいものです。
説明板には下記のように記されていますが、本当はどうなのでしょう?
建武の中興の柱石であった新田義貞は、北陸を転戦中、延元3年(1338)、越前国(福井県)藤島で討死し、足利尊氏によってその首級を晒されていた。
義貞の家臣宇都宮泰藤(小田原城主、大久保氏の先祖)は、主君義貞の晒首を奪い返して領国三河へ往き、妻子に暇を告げ、主君義貞の本国、上野国(群馬県)に首級を葬るため東海道を下った。
しかし、酒匂川のほとり、ここ網一色村に達したとき、病にかかり再起できなくなってしまったという。そこでやむなく義貞の首をこの地に埋葬して、自身もこの地で歿したと伝えられている。
その後、新田義貞の首塚として地元の人々に尊信されていたが、戦後一時荒廃してしまった。しかし近年地元有志によって復興整備され、新田義貞の首塚の碑も建立された。なお北方八幡神社境内に、新田神社の祠がある。
新田義貞の首塚伝承はいろいろあり、確定されていないらしいです。
下記URLの「3、船田善昌が関わる違う伝説」がこの場所の伝承です。
興味ある方は下記URLをご覧ください。
http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-357.html
つづく
旧東海道シリーズ
・東海道53次 小田原宿 酒匂の渡し
鴨宮駅前に「新幹線発祥の地」の碑があり新幹線のモニュメントが飾られています。
碑文は以下のものです。
新幹線は日中戦争当時の1930年代,輸送力増強の手段に「弾丸列車計画」として発案され,昭和十五年に計画が承認され工事がスタートしたものの,その後,太平洋戦争の戦況悪化で工事が頓挫しましたが,現在の新幹線は土地の買収や工事が進展していた区間を利用しました。鴨宮区間もその一つでした。
昭和三十九年十月十日の東京オリンピックの開催に合わせるように,十月一日に開業しました。
新幹線は,昭和三十七年,鴨宮と綾瀬を結ぶ区間が試験線となり,この試験線は開業に際し,新横浜−小田原間の一部として,現在,使用されています。
東海道線鴨宮駅に隣接された試験基地は「鴨宮モデル線区」と呼ばれ,現在,「新幹線発祥之地」と制定された記念碑が建立されています。夢の超特急と言われた東海道新幹線が昭和三十九年に開業して,早や四十五年の歳月が経とうとしています。
しかしながら,鴨宮が日本の新幹線の発祥地である事を知る人が,段々と少なくなって参りました。
そこで,私共は,世界一速い・世界一正確で・世界一安全な乗り物,夢の超特急と言われた東海道新幹線の歴史を正しく,後世に伝えて行く為に,「新幹線の発祥地・鴨宮」の記念碑を建立し,地域のシンボルとして,又,世界にも誇れる歴史的にも貴重な遺産を風化させない為に,ここに記念碑を建立いたします。
又,この事業基金は全額を皆様方からの暖かい浄財によって賄われました。ご協賛を賜りました方々のお名前を碑に刻み未来永劫その証を称えます。
平成二十一年四月吉日
「新幹線の発祥地・鴨宮」碑建立事業実行委員会
会長 高橋隆一郎
(下府中地区自治会連合会会長)
鴨宮駅南口に見える塔のようなものはエレベータです。
鴨宮駅を出発し旧東海道を目指して、まずは1.5kmほど南下します。
左右に走る道路が旧東海道です。
酒匂川の土手の松並木
酒匂川に架かる橋です。橋には小田原城と松のプレートが貼り付けられて、小田原は目の前ということを示しています。
広重の浮世絵「酒匂の渡し」初版には右上に小さく富士山が、左には小田原城が描かれています。箱根の山が強調されています。(写真をクリックすると拡大します)
広重「酒匂の渡し」−後版では箱根の山の険しさは姿を消し、二子山(ふたごやま)が描かれているようです。富士山と小田原城は描かれていません。
箱根の二子山が橋の上から良く見えます。
上流にダムが築かれ水量は少なくなっています。昔は「暴れ酒匂川」と言われ洪水を度々引き起こしていた川です。もう少し上流の開成町では宝永の富士山大噴火の折には火山灰が積もり堤防が切れ、小田原藩では修復する財政が無く、幕府に願い出て修復されたのです。
つづく・・・・・旧東海道53次小田原宿 新田義貞首塚
死の淵を見た男
吉田昌郎と福島第一原発の500日
(門田 隆将)
(PHP研究所)
福島第一原発が地震と津波に襲われた直後の様子を関係者にインタビューして当時の様子を記したものである。
電気がシャットダウンし、暗闇で原子炉横の中操で懸命に原子炉を冷そうとする人間の生き様に頭が下がる。TVや新聞で報道されなかった人間模様にジンと来る。
命懸けで責任感と使命感で活動していたのは東電本社の人間や政府の人間ではなく、そこで働く作業員である。特に伊沢をはじめとする当直長たちを中心とする68名の決死隊である。
若者と女性はこれ以上残せない!それ以外の人間は残るか出て行くか苦渋の選択の末残ったのが68名である。残った人は冷却できないと町がダメになる、日本がダメになる、止めるのは誰だ!の苦渋の判断を迫られる。出た者も見かねて戻り始める。この力はどこから生まれるたのであろうか?戦場であり、野戦病院だと中繰の様子が描かれている。
東電の二名の若者が津波に飲まれて命をなくする。その一人21歳の寺島祥希の家族が息子の行方不明の報を聞き、見つかるまでの記述は目頭から涙が出る。
井沢が住む地区の40名があの事故以来散り散りになった後、集まった席で「郁夫ちゃんは、頑張ってくれたのだ、最後まで、故郷を守るため、その郁夫ちゃんが今日はみんなのために来てくれたのだ」拍手が起こる。みんなは分かっていたのだ。また涙!
いろいろ考えさせられる本であった。現場の人間に感謝する。彼らのおかげでなんとか原子炉が冷却できたのである。