今日は台風の影響で日が出る時もあるが時々ザーと雨が降る天気で外へ出られないので本の紹介です。

小田原名物にに「ういろう」があり、店は八層の城です。現在も続いている「ういろう」家の歴史を知りたいと思い読んだ本です。
wordを開いて読みながらメモを取ったものなので興味にない方はpassしてください。
wordをコピー貼り付けしたので文字サイズの調整が出来なかったので見ずらく、長いですがご容赦を。

ういろう物語

(山名美和子)

(新人物往来社)


  最初の8ページに「ういろう家の歴史」の写真が掲載されている。


2011_0822外郎0001  2011_0822外郎0002


話は京都の祇園祭の山鉾から始まる。これ、「ういろう」とどういう関係があるの?
山は人が担ぐもの、鉾は車輪の付いているものをいう。そうなんだ!

物語は「歴史の道を歩こう会」という大学のサークルに入っている大学二年生の加奈子が「友だち以上・恋人未満」の駿(しゅん)と「ういろう」について卒論に出来そうだと調べて行くという物語形式なので読みやすい。

祇園祭の鉾に「蟷螂山(とうろうやま)」があります。祇園祭の鉾で唯一からくりがあるのが「蟷螂山」です。鉾の上にカマキリが乗っており、カマキリが羽を広げる。(下記URL

http://www.youtube.com/watch?v=BIUFusLjgNE


カマキリの手斧を振り上げる姿を、わずかな力で強大な軍に立ち向かう勇者に例えられた故事から来ている。

外郎(ういろう)は室町時代、中国は元の時代に中国からやってきて漢方の薬(ういろう)を日本に伝えたのです。その後、足利義満に公家として使え日本に帰化して西洞院に住み、「蟷螂山」を作ったのです。そして、北条早雲に招かれ小田原に武家として使え、その子孫が外郎という名前で現在も存在している。

「ういろう」というお菓子は名古屋が有名ですが小田原のういろう菓子「ういろう」が元祖である。

小田原のういろう店は漢方薬製造販売と共に、室町時代から造っている。


西行が「心なき身にもあわれは知られけり 鴨立沢の秋の夕暮れ」と詠んだ大磯の鴨立庵(しぎたつあん)も「ういろう」に関係あるという。

江戸時代の崇雪という人が鴨立沢に如来堂を建て、その後俳人の大淀三千風が再興したのが鴨立庵である。

敷地内に建てられた石碑にある銘文「著盡湘南清絶地」とある。これは「この清らかな風景こそ、まさに湘南」という意味で「湘南発祥の地」とされている。石碑を建てて文字を刻んだのが崇雪で、小田原の外郎家の一族という関係です。外郎の祖先は中国の江南(長江の南側)に出身で長江や洞庭湖(どうていこ)を行き来していた「水上のシルクロード」の大商人でこの辺りを湘南と言っていた。崇雪はまだ見ぬ故国の美しい風景にあこがれて「湘南」と詠んだのだろう。茅ヶ崎に左富士が見える湖南という場所があるが、近くに湖は無いのでこの名も中国から来ているのかもしれない。


「外郎売り」として有名になった外郎であるが、江戸時代に二代目市川団十郎がのどを痛めた折、「ういろう」の薬で治ったことから「ういろう売り」の口上を創作し、早口言葉で有名になったそうです。アナウンサーはこれを練習するそうです。演目は「ういろう売り」ではなく「若緑 勢 曾我(わかみどりいきおいそが)」というそうです。12代目市川団十郎が病後の復帰講演でこの「ういろう売り」を演じました。その折、小田原のういろう店を訪れている。


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「ういろう売りの口上は下記
URL

http://www.youtube.com/watch?v=azVjrOJRBPg





ここまでの話が第一章。二章からは外郎が日本に渡る経緯から北条早雲に使えるまでの話。


日本に渡った父の名は陳延祐である。なぜ、外郎か?元朝(中国)の役所・礼部に員外郎(いんがいろう)という身分で勤めていたところから来ています。員外郎とは時に応じて採用される定員外の職である。


中国から延祐とその子、宗奇は博多に渡り、宗奇は医術、交易を身に着け足利義満に招かれ京へ登る。

与えられた屋敷は四条通と西洞院通りが交わったあたりで、今も山鉾の蟷螂山(とうろうやま)町という町がある。

四条烏丸と四条大宮の中間地点である。
四条西洞院通りマップ拡大



宗奇が台州で「霊宝丹(れっぽうたん)」を調合する技術を得る。また、菓子の「ういろう」も宗奇が作り上げ、羊羹の原型と言われている。「霊宝丹」は後に「透頂香(とうちんこう)」と呼ばれた。そして「ういろう」と名を変えている。歌舞伎の「外郎売り」の口上には「透頂香(とうちんこう)」が使われている。「透頂香」となったのは三代目常祐の時である。


外郎家と非常に関係が深いのは交易をおこなっていた平方家である。二代目宗奇が多万を四代目祖田が笹乃と結婚している。交易が無くては薬の原料が手配出来なかっただろう。両家の関係で多くの人々を救えたのである。

外郎家は薬術のみならず医術・交易・芸術(和歌、蹴鞠・・)に秀でた一家なのです。したがって公家、武家の世界で重要視された。


5代目定治(小一郎)は伊勢新九郎(北条早雲)に元服の烏帽子親になって貰い、戦国時代初期で、京が不穏な状態であり、祖田は定治に東へ行き透頂香を残すことを命じ、韮山の江川邸(宇野家)へ行く。伊勢新九郎が小田原に入り町づくりに手を貸してほしいと定治を招く。ここから外郎家は公家から武家となって行く。定治はこれより宇野藤右衛門定治と名乗る。これより外郎家の当主は藤右衛門を名乗ることになる。現在の外郎家当主は外郎藤右衛門康祐(やすむら)である。


「外郎売り」の口上は下記のように始まる。

拙者親方と申すは、お立ち会いの中に、御存じのお方もござりましょうが、お江戸を立って二十里上方、相州小田原一色町をお過ぎなされて、青物町を登りへお出でなさるれば、欄干橋虎屋藤右衛門、只今は剃髪いたして、円斉と名乗りまする。

ここにも藤右衛門がでてくる。虎屋とは江戸時代、店の中に狩野元信が描いた虎の絵が飾ってあったことから虎屋と呼ばれていた。

ぶぐばぐぶぐばぐみぶぐばく・・・・という早口言葉は下記の外郎売り口上の一部である。

武具・馬具・武具・馬具・三武具馬具、合わせて武具馬具・六武具馬具


歌舞伎の市川家は「成田屋」と呼ばれるが、初代が千葉・成田出身で、成田山新勝寺に願をかけ生まれたのが二代目。二代目を「不動明王の申し子」としてデビューさせ、カリスマ性を高め「成田屋」と呼ばれるようになった。

江戸時代、二代目団十郎がのどを痛めて声が無くなった時、外郎家の隠居意仙が俳諧仲間だったところから団十郎に家伝の妙薬(ういろう)を渡した所、のどが治って再起した。そこで外郎売りの口上を作った。喜んだ団十郎は小田原に住む意仙を訪ねている。それ以後「ういろう売り」の口上を演目に上げる時は必ず小田原の外郎家を訪ねることになってる。


ういろう物語
今回の「ういろう物語」は中国が元から明へ移行する動乱期から始まり、日本の博多→京→小田原(北条早雲)と移った時までの物語だがそれ以降の物語を書いてくれるのを望む。


卒論として提出した「ういろう物語」は卒論としては異例であるが調査の努力を認めて優を貰ったと言うことです。