日本昔話風に「生きていく覚悟」を描いた一風変わった、恐ろしくもあり、愛もある本です。
たまゆら
(あさのあつこ)
(新潮社)
人はやまに留まることはできない。 山は人の住む処ではないのだ。 臨界がある 山と人の間には臨界の線が引かれている。そこを越えたままではいけないのだ。臨界線を越えて留まろうとしてはいけないのだ。それは人であることを捨てることになる。 人でなくていいのなら越えてしまえ。 人であることを捨てられるのなら、留まったままでいるがいい。けれど、けれど、やはり帰って来て下さい。 ここに。 わたしと伊久男の家は臨界の上にある。 ここから人の世が尽き、山が始まる。 山の臨界線に日名子と伊久男の老夫婦が住み、山へ入る人、帰る人をじっと待っている。この老夫婦は何者なのか?物語の後半で解る。 そこへ真帆子という少女が臨界で倒れ込み、行動を共にする。 真帆子はどうしても陽介を求めて山に入る。「あの人に会いたい、もう一度、絶対離さない」という慟哭の物語。ではあるが 本の表紙は物語を現したものである。 「その陽介くんて人がここへ来たと、なんで思われるんですかの」 「山へ行くとあの人が言い残したからです」 真帆子さんが「あの人」と口にするたびに背筋が冷えていく。 真帆子さん名前を呼びなさい。 人にはかならず名前がある。その人の名前を呼びなさい。そうすれば確かな輪郭に縁どられて一人の人間が現れる。一緒に笑ったり、話をしたり、目配せしたり、歌たり、歩いたり、抱き合ったりできる。一緒に生きていける。 「あの人」はあいまいだ。輪郭が無い。情念が輪郭を溶かしてしまう。いっしょに生きていくのではなく、いっしょに堕ちていこうととする。 ここは臨界。 ここで人の世が終わる。 ここから山が始まる。 だから引き返して。 人は人の世にかえらねばならないのです。 日名子は心の中で祈りながら、少年を見ていた。 若いころの伊久男に似ている。 どこが似ているだろう? 陽介が身じろぎした。眸に炎が移っている。 それで日名子は悟った。 この少年はもう山を降りることはないのだ。 この少年は人を殺したのだ。 人を裏切った場合どう償いをすれば良いのか?解らない! これがテーマでもある。 本当に、好きで好きでたまらない!というのは論理を越えた感情でいろんな罪を犯しやすい。その罪を抱え込んで生きて行く覚悟が必要なのだ。一種、恐ろしいことである。こんな覚悟はなかなか出来ないものである。 “遠野の大人の昔話”の感じがする。序のはなし、一のはなし、二のはなし・・・・と目次は進む。