2010.3.26
東海道53次歩き二回目は品川宿から川崎宿まで歩きます。
ガイドは女性で参加者38名でした。
品川駅集合です。

JR品川駅を出て八ツ山橋を渡り京急北品川駅方面へ歩きました。


JRの線をまたぐ橋に旧東海道の文字がありました。

橋を渡ると「八ツ山橋」「屋つやまはし」と書いた橋の石柱と親柱があります。
明治5年鉄道開通に伴い掛けられた橋であり、この辺りの海に突出した洲が八つあったところから「八ツ山」と呼ばれました。なぜ「屋つやまはし」と書かれているのかはわかりません。ゴジラが日本上陸の第一歩を印したのはこの八つ山橋でした。

橋を渡ると整備中の小さな公園に出ます。
地下道の出入口らしいです。

向こうには御殿山ガーデン、ラフォーレ東京のビルが見えます

新しい石に「戸塚」の文字がありました。この道を行くと戸塚に出るという道案内でしょうか?

「旧東海道」町歩きマップの掲示板がありました。
グリーンの線が旧東海道です。
東海道歩きは一号線を歩くのだと思っていましたがそうではないようです。思うに、江戸時代の東海道の左右には店や宿がぎっしり建っていたので、幅の広い幹線道路にはできなかったのでしょう。宿場町より少し離れた余裕のある場所に幹線道路を引いて一号線にしたのでしょう。写真をクリックすると拡大します。

公園のトイレです。

東急の踏切を渡り旧東海道の「北品川本通り商店街」へ進みました。



商店街を進むと左側に路地があります。この路地は坂道で低くなっていきます。ブラタモリが好きな坂で平坦になっている場所は江戸時代に海だったのです。
広重が描く品川宿は東海道のすぐ傍まで海です。
「問答河岸跡」とは海岸の先の波止場で、三代将軍家光が東海寺に入る時、沢庵和尚が迎えに出て問答をした場所ということです。
広重は「品川 日の出」で御殿山の麓を通過する大名行列の最後尾を描いています。
海が迫り、茶屋が並び客引き女性が描かれています。江戸時代の品川宿の様子がよくわかります。

品川宿の江戸寄りには宿場の役務として人足を出していました。そこは「歩行新宿」と名づけられました。家業としては「∧印」がつく「食売旅籠」や「水茶屋」が多かったそうです。実質遊郭です。歩行新宿の中でも大きな旅籠が、現在の北品川1-23角にあった「土蔵相模」です。これは歩行新宿にあった「相模屋」という意味です。旅籠と言うよりもむしろ妓楼で、外壁が土蔵のような海鼠壁だったため通称「土蔵相模」と呼ばれました。

土蔵相模は高杉晋作や伊藤博文等、幕末の志士が密会した場所です。また、長州藩士による英国大使館焼き討ち事件の際はここから出発しました。また、桜田門外の変で狙撃した水戸藩士17名がここで訣別の宴を開催しました。いろいろ歴史の舞台になった場所です。当時の建物は昭和になくなり、コンビニとマンションになっています。

「台場横町」
ペリー来訪を受け守りを固めるため台場が建設されました。御殿山台場下へ下る横町を台場横町と言われていました。

一心寺
安政2年(1854)日本開国の機運が高まり、大老井伊直弼が「品川宿で鎮護日本・開国条約・宿場町民の安泰を願え」との霊験を得て開き、町民代表の手で建立されたと伝えられています。


「品川宿 川崎宿二里半 日本橋より二里」と書かれています。

品川本陣跡。今は公園になっています。







つづく・・・東海道53次 NO.4-2 品川宿2
東海道53次 NO.1−1 東京駅日本橋口から
東海道53次 NO.1−2 日本銀行・三越
東海道53次 NO.1−3 日本橋
東海道53次 NO2−1 八重洲・銀座
東海道53次NO.2−2 新橋
東海道53次NO.2−3 浜松町

